2008年6月22日 (日)

『私たちの終わり方』

『私たちの終わり方』〔真部昌子〕【学研新書】読了。

帯に-学研新書創刊!-とあったので、まぁ一種のご祝儀の心算で、副題に-延命治療と尊厳死のはざまで-と銘打たれた、私の個人的なライフワークに関連するトピックを扱っていると推測されたこの本を、実はあんまり内容も吟味せずに買いました。

結論から言うとこの一冊は正に新書の鑑のような本で、日本でも昨今看過出来ない社会的な問題になりつつある、死に場所・死に時の自己決定権の話から始まって、苟もこの分野を語る時には是が非でも一度はご登場願わねば場が治まらない花形2大スターの尊厳死・安楽死については勿論のこと、最後にはしっかりと脳死臓器移植という真打ちで締めるという、基本に誠にもって忠実な筋立てに沿って構成されており、そういう意味では、そのカバーする範囲については一切抜けはありません。

但、悲しいかな、余りに新書判の広く浅くというマニュアル通りに仕上げられているため、過不足がなさ過ぎて、内容に深みも発展性も全く望むことが出来ません。通り一遍の単なる事例紹介集に過ぎないなどと言ったら少し著者には酷ですが、それでもこの分野の事をまるっきり御存じない方々向けの入門書としては、充分に機能するレベルだとは思います。

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2008年3月16日 (日)

『宗教の経済思想』

『宗教の経済思想』〔保坂俊司〕【光文社新書】読了。

これは爆弾を踏んでしまいました。元々ちくま新書以外の新書はスカ率が結構高いので、購入に際してはよくよく中味を確認した上で、慎重の上にも慎重を期して判断するのですが、今回に関してだけは、私の関心事にジャストフィットし過ぎた本書のタイトルに幻惑され、後先考えずに迂闊にも簡単に飛び付いてしまいました。大いなる反省点です。

宗教でも経済でも倫理でも、とにかく最低この内どれか一つの領域についてだけでも、深く掘り下げた新鮮味のある著者独自の理論展開があればまだ救われたのですが、初めから終わりまで陳腐化された常套句を適当に見繕って横並びにして見せ「はいこれが比較宗教学的経済倫理思想です」と言われても、あまりに表層的過ぎて感想の持ち様もありません。

金取って商売するのなら手抜きは厳禁、この一番肝腎な経済の要諦を心得ていない著者が、こんな題名の本を書くこと自体にそもそも無理があったようですね。

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『「私」のための現代思想』

『「私」のための現代思想』〔高田明典〕【光文社新書】読了。

自殺には「正しい自殺」と「正しくない自殺がある」などど、帯のコピーでセンセーショナルに煽っている割に、中味は至って真面目な学生向けの現代思想入門書で、存在論や認識論等の哲学の根源に関わる一般的にはやや小難しいとされる領域を主として扱っているにしては、幾分分量が厚めになってしまった嫌いはあるものの、偏に著者の著述力によって、読みやすく分かりやすい本に仕上がっています。

ニーチェに始まり、フーコー、ハイデガー、リオタール、ウィトゲンシュタイン、レヴィナス、果てはゴフマンやドゥルーズに至るまで、引き合いに出される哲学者や社会学者も的確に上手に手際良く料理されており、これなら読了後誰でも存在論の触りぐらいは、何となく感じ取れるのではないかと思います。

但、如何せん、存在論は絶望的に奥が深い・・・

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『永井荷風という生き方』

『永井荷風という生き方』〔松本哉〕【集英社新書】読了。

鷗外、潤一郎と共に、近代日本文学史上の大本線である漱石ー龍之介ラインに対し、堂々と拮抗する対抗別線を形成した文豪永井荷風の、生活上のこぼれ話を丹念に拾い集めて、搦め手からその人となりを浮き彫りにしようという試みの本で、その狙いは充分に成功していると思います。

構成、文章とも明らかにプロの仕事ですので、読み進んでいくうちに自然と厭でも奇人偏人と言われた荷風の、そのある種潔癖なまでの透徹した個人主義の凄まじさが、じんじん感じられるでしょう。

因みに私は言うまでもなく、本線蹴飛ばし、別線勝負派で、蛇足ですが卒業論文も谷崎潤一郎論でした。

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『ぜんぜん大丈夫』

『ぜんぜん大丈夫』〔伊集院静・西原理恵子【角川文庫】読了。

「静と理恵子の血みどろ絵日誌」と銘打たれた人気エッセイシリーズの第3弾。競輪広報大賞<活字賞>なるものを受賞したらしい第1弾『アホー鳥が行く』と第2弾『それがどうした』は、何れも双葉社発行のハードカバー本を持っていますが、未読です。

本文も本文イラストも、何れ手だれの手になるものなので安心して楽しめるし、内容的にもギャンブル好きには恰好の暇潰しになるでしょう。

但、いつも感じる不満は、伊集院氏の競輪に対するスタンス。一貫性の無い単発的な批判ばかりが目につき、一向に建設的で体系だった意見を表明する気配がないのは、それなりに影響力のある人の態度としては残念で仕方ありません。

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『脳死臓器移植は正しいか』

『脳死臓器移植は正しいか』〔池田清彦〕【角川ソフィア文庫】読了。

生命倫理学は私の個人的なライフワークなので、詳しく論じるのは別のブログにしたいのですが、そちらの更新も遅々としてまるで進まない現状ですので、取り敢えず関連書の感想メモだけでもこちらに残しておきます。

本書はその訴える主張も首尾一貫している上に構成も大変論理的な一種の論文なので、章を追いながら気付いた内容を記していきたいと思います。

先ず著者は序章ではっきりと脳死臓器移植反対の立場を明らかにしておりますが、後に分かるように臓器移植そのものに反対しているわけではなく、脳死者からの臓器移植にだけ反対しているということで、これは案外重要な押さえておくべきポイントでしょう。存在論と医療技術論とは月とすっぽん、まるで次元の違う問題だからです。

第一章「臓器移植法・改定案の問題点」は、脳死の社会科学上の定義の問題で、本質的な話ではありません。

第二章「死とはどういうことか」は、一人称・二人称・三人称の死ならぬ、自己の死・他人の死(生物学的な死)・社会的な死という、昔からよく取りあげられている死そのものの多面的な考察ですが、この中で人文科学的な死は自己の死だけですから、ここをより深く掘り下げていくことこそが生命倫理学に与えられた使命でしょう。尤も誰一人として自分の死を経験出来る者は無いという、その不可知性こそが最大の障碍なのですが。

第三章「脳死はペテンである」は、脳死状態をこの世に出現させた当事者自体が、一方で臓器移植医療という観点のみからの必要性によって、たった今自らによって作り出されたこの<脳死という状態>を、一転して即座に人の死と規定しようとする、その身勝手で悪質なご都合主義に対する批判です。一歩間違えれば社会的にも大混乱を惹起しかねない、心臓死(三徴候死)と脳死とによる死の基準のダブルスタンダード化は、先ず脳死臓器移植ありき、というとんでもない前提によって議論を出発させた結果としての異様な帰着点そのもので、そもそも決して所謂科学的に判断基準を示すことが出来ない筈のプロセスとしての死の基準を、こんな矮小な理由で捻じ曲げようとすることに、大いに無理があるのでしょう。

第四章「死の自己決定権について」は、一部の自分勝手極まりないインテリ連中の間で、現在密かにややリバイバルブームとなりつつある、リバタリアンの尊師、ジョン・ロック等という大物を担ぎ出しての所有権論争にまで話が展開していますが、死の自己決定権を否定する著者の方にも、深い部分で<自己>を裏打ちするための宗教的オントロギーが決定的に欠落していますので、残念ながらあんまり建設的な批判にはなっていません。

第五章「人工妊娠中絶と脳死」は、脳死臓器移植問題を、脳死者同様常に生死の境界を彷徨い歩く曖昧な存在である胎児の人工妊娠中絶という事例を引き合いに出しながら、ここでは視点を変えて寧ろレシピエントに対して、人の生存権はある社会条件下では制限されることも許される、という一種残酷な宣告をしている章ですが、生命倫理学的な観点から言えば、人工妊娠中絶問題というのは、こんなレベルの低い論駁の手段としてお手軽に利用されるだけでおしまいのような、薄っぺらいトピックでは決してありません。正直ちょっと残念です。

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2007年11月18日 (日)

『商社審査部25時』

『商社審査部25時』《知られざる戦士たち》〔高任和夫〕【講談社文庫】読了。

一応世を忍ぶ仮の姿としてサラリーマンの仮面を被ってはおりますが、元々所謂「ビジネス」なるものに興味が丸っきり無いばかりか、寧ろその胡散臭さ、アホ臭さに常々ホトホト呆れ返っている身の私ですから、この種のジャンルの読み物などには初めから手を出さなきゃ良いのですが、心底疲れ果てた時や暇潰しの材料としては恰好の手慰みになりますので、ついつい思い出したように手に取ってしまいます。

所詮セミプロの書き物ですから、ストーリーや展開、人物造形・描写など小説としての出来映えなどは端から問題外なのはビジネス小説なるものの常で、勿論本書もその例外ではありませんが、それでも何とか楽しめつつ最後まで読み進められたのは、どちらかというと一般会社内(商社は当然別)ではマイナーな日蔭部門と言える与信管理セクションをメインテーマに据えたという点に、下卑たスケベ心を擽られたからです。

それにしても脱サラ組のこの手の書き手は、己の専門分野を舞台にした読み物一発で消えて行く人が多いんだろうなぁ、きっと。

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2007年6月16日 (土)

『あぶく銭師たちよ!』

『あぶく銭師たちよ!』〔佐野眞一〕【ちくま文庫】読了。

著者の『東電OL殺人事件』を以前読んだ時は、そのやや拡散気味のルポ手法に少しがっかりさせられた記憶があるのですが、このー昭和虚人伝ーと副題に銘打たれた作品は、脂が乗り切った時代に書かれたためか、はたまた俎上に載せられた都合六名の昭和最晩年に跳梁跋扈した怪人の面々の、その何れも常人ならざるパワーが醸し出す一種異様で独特な毒気のせいか、とにかく全篇活気に満ちた迫力のある本に仕上がっています。

結果論では何とでも言えますが、江副浩正(理念なき膨張)にせよ鹿内春雄(父子テレビの野望)にせよ確かに一時代を築いた寵児であった事実は紛れもありませんし、地上げ(早坂太吉・地上げの帝王)に至ってはバブル時代の代名詞、良くも悪くもこれらは決して前世紀末日本の歴史上から消し去ることの出来ない貴重な一ページを綴った人物たちの、後世に甚大な影響力を齎す足跡です。そこから糧として何を得るかはそれこそ人それぞれでしょうが、彼ら昭和の虚人連中のある種壮絶な生き様を知っているかいないかでは、随分と今後の我々の生活に厚みの差が生じて来るような気もします。

本書で取り上げられている残りの3人のうち、斎藤都世子(虚飾の家元)に関しては寡聞にして知りませんでしたが、高宮行男(利殖としての予備校)は正に我が母校(言わずと知れた代々木ゼミナール)の理事長、そして細木数子(大殺界の怪女)については今更何をかいわんや、ということで決して飽きさせない登場人物が豪華揃い踏みという点からだけしても、一読の価値はありそうです。

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2006年12月23日 (土)

『大人のための嘘のたしなみ』

『大人のための嘘のたしなみ』〔白川道〕【幻冬舎新書】読了。

そもそも初めから本人が本当に書いたのかどうかすら怪しい、しかもこの上なく薄味の出来であることも或る程度見当が付いていたにもかかわらず敢えて本書を購入したのは、色んな意味で二重三重に私の直接の先輩である著者に対する、一種の敬意からです。

幻冬舎お抱え売れっ子作家の一人として、新書創刊に際しての顔見世興行に出演すること自体に意義があるのであって、正直その中味などにはあんまり問うべき価値は本来ないのが通り相場、従ってこの場であれこれ逐一その内容を詮索するような野暮は、私も差し控えたいと思います。

それでもどうしてもこの本の味を知りたいのだという方は、著者の『崩れる日 なにおもうー病葉流れてⅢー』【小学館】をお読みになってみて下さい。本書の何倍も濃厚で極上な風味が厭でも味わえますよ。

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2006年12月17日 (日)

『ベルクソン』

『ベルクソン』〔篠原資明〕【岩波新書】読了。

生成論・存在論が哲学の最重要課題であるというのは全く以って至極当たり前の話ですから、先ずは著者の論調には大いに賛同出来ます。紛れも無くカルト宗教であるにもかかわらず、大多数の西洋人が挙って入れ揚げてしまっているというそのあまりのスケールの大きさ故、殆ど彼らに対して神聖不可侵にも近いポジションを占めているキリスト教に、敢えて抵触するような危険極まりない哲学的挑戦を次々繰り返した所為でやや異端的な扱いを受けてきたこのベルクソンという哲学者を今こそ再評価するべきだ、という主張にも従って全面的に賛成です。

そもそも宗教(というか一切の妥協を許さない偏狭な一神教であるキリスト教)に怖じ気付いてまともなオントロギー一つ口にする事にすら及び腰になるようでは端からお話にならないので、そんな連中の言説を有り難くご拝聴する必要など更々ありません。我々はどこから来て、何であって、そしてどこへ行くのか。この人類にとって最も根源的な問いの答えを初めから或る偏った特定宗教の教義の枠内で幾ら必死に探しても、それはまるで無益で不毛な作業に過ぎないのです。

Ⅲ章「神秘系と機械系」で少しだけ触れられているベルクソン哲学と真言密教との関連性については、非常に面白いテーマですので、対象は途方も無く膨大ですが今後私も独自に研究し続けていきたいと思っています。

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