『脳死臓器移植は正しいか』〔池田清彦〕【角川ソフィア文庫】読了。
生命倫理学は私の個人的なライフワークなので、詳しく論じるのは別のブログにしたいのですが、そちらの更新も遅々としてまるで進まない現状ですので、取り敢えず関連書の感想メモだけでもこちらに残しておきます。
本書はその訴える主張も首尾一貫している上に構成も大変論理的な一種の論文なので、章を追いながら気付いた内容を記していきたいと思います。
先ず著者は序章ではっきりと脳死臓器移植反対の立場を明らかにしておりますが、後に分かるように臓器移植そのものに反対しているわけではなく、脳死者からの臓器移植にだけ反対しているということで、これは案外重要な押さえておくべきポイントでしょう。存在論と医療技術論とは月とすっぽん、まるで次元の違う問題だからです。
第一章「臓器移植法・改定案の問題点」は、脳死の社会科学上の定義の問題で、本質的な話ではありません。
第二章「死とはどういうことか」は、一人称・二人称・三人称の死ならぬ、自己の死・他人の死(生物学的な死)・社会的な死という、昔からよく取りあげられている死そのものの多面的な考察ですが、この中で人文科学的な死は自己の死だけですから、ここをより深く掘り下げていくことこそが生命倫理学に与えられた使命でしょう。尤も誰一人として自分の死を経験出来る者は無いという、その不可知性こそが最大の障碍なのですが。
第三章「脳死はペテンである」は、脳死状態をこの世に出現させた当事者自体が、一方で臓器移植医療という観点のみからの必要性によって、たった今自らによって作り出されたこの<脳死という状態>を、一転して即座に人の死と規定しようとする、その身勝手で悪質なご都合主義に対する批判です。一歩間違えれば社会的にも大混乱を惹起しかねない、心臓死(三徴候死)と脳死とによる死の基準のダブルスタンダード化は、先ず脳死臓器移植ありき、というとんでもない前提によって議論を出発させた結果としての異様な帰着点そのもので、そもそも決して所謂科学的に判断基準を示すことが出来ない筈のプロセスとしての死の基準を、こんな矮小な理由で捻じ曲げようとすることに、大いに無理があるのでしょう。
第四章「死の自己決定権について」は、一部の自分勝手極まりないインテリ連中の間で、現在密かにややリバイバルブームとなりつつある、リバタリアンの尊師、ジョン・ロック等という大物を担ぎ出しての所有権論争にまで話が展開していますが、死の自己決定権を否定する著者の方にも、深い部分で<自己>を裏打ちするための宗教的オントロギーが決定的に欠落していますので、残念ながらあんまり建設的な批判にはなっていません。
第五章「人工妊娠中絶と脳死」は、脳死臓器移植問題を、脳死者同様常に生死の境界を彷徨い歩く曖昧な存在である胎児の人工妊娠中絶という事例を引き合いに出しながら、ここでは視点を変えて寧ろレシピエントに対して、人の生存権はある社会条件下では制限されることも許される、という一種残酷な宣告をしている章ですが、生命倫理学的な観点から言えば、人工妊娠中絶問題というのは、こんなレベルの低い論駁の手段としてお手軽に利用されるだけでおしまいのような、薄っぺらいトピックでは決してありません。正直ちょっと残念です。
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